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独占インタビュー! ワトキンス博士が語るセナ パート2

マクラーレンからウィリアムズへ、そして死・・・
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危険に満ちあふれたスポーツの悲惨な面

長きにわたってF1の医療部隊を率いてきたシド・ワトキンス博士に『ESPN Racing-Live.com』が独占インタビュー。先ごろお届けしたパート1の続きをどうぞ!

「彼がレースに勝った時は本当に、本当に興奮したね。勝利したものの、レースの最後に湖に向かって止まってしまってマシンから降りられなくなった彼を迎えに行った時なんかは本当に興奮した」

「われわれには彼を助けることが必要とされていた」

母国レース制覇には長い時間がかかったセナは1991年にインテルラゴスで勝利すると感極まった。

「腕に弱点を抱えていた彼はプッシュできなかったのだ」と続けるワトキンス博士。

「とにかく、われわれは彼をメディカルカーに乗せてピットまで連れ帰った。当然、サーキット周辺の拍手は驚くべきものだったよ。彼は手を振り返すために腕をあげようとしていたな。ピットレーンが徐々に近づくころには、もう彼は手を振っていたよ。もはや上がらないはずの手足を必死に振ろうとしている彼を見るのは本当に興味深かった」

当時、競争の波が訪れていたF1では1991年にセナが3度目のタイトルを獲得した一方で、マクラーレンは1992年末までエンジンサプライヤーだったホンダを失い、1993年はフォードのカスタマーエンジンに頼らざるを得なかった。ウィリアムズ・ルノーが強力なパッケージとなったことがセナにとっては問題で、1992年はナイジェル・マンセルが絶対的優勢の中、タイトルを勝ち取っている。

「1993年、1994年はマクラーレンに対して不満を抱くようになり、マクラーレンとはレースごとの契約に切り替えていたはずだ」

「彼はフランク・ウィリアムズ代表およびウィリアムズのチームと話していたし、彼はいつも私に、その時点ではウィリアムズのマシンがとてもいいから移籍したいのだという願望を打ち明けてくれていた。そして彼は移籍する。ロン・デニスはそれについて非常に動揺していた。彼らはとても仲の良い友人だったからね」

「私はアイルトン(セナ)に対して、すべてのF1チームは同じ哲学の下にある、と指摘した。彼らは勝ちたいし、勝てなければイライラもする。そして、それはチーム全体のプロセスを混乱させる、と。それが1993年にマクラーレンの中で起こっていたことだと私は推測している」

セナは1994年に後のF1世界王者となるデイモン・ヒルをパートナーに、ウィリアムズ・ルノーに加入した。それはドリームパッケージだった。マンセルや宿敵アラン・プロストがF1を去ったとあって、完全にセナのものだと誰もが予想していたのだ。

「そうさね、マシンは良かったと思うよ。だが、アイルトンは運がなかった」

「例えば、アイダ(TIサーキット英田/現岡山国際サーキット)では複数の事故があり、彼は最初にハッキネンだったと思うが、彼に衝突され、押し出されてしまった。だから、彼はこれに関してイライラしていたんだ。ブラジルでは、確かスピンを喫したんだったな。そして、そう、イモラに向かった。この年、3戦目のレースだったと記憶している。彼は勝利に必死だった。週末を通して、それがモチベーションとなっていたが、かなりやけくそだったんだ。そして彼はフロントローを獲得する。彼がポールだったかそうじゃなかったかは覚えていないが、皆さんの方がご存知かもしれないね((実際はポールスタート)。彼はとてもシリアスになっていた。当然、土曜日に(ローランド・)ラッツェンバーガーの事故があったこともある」

土曜日に行われた予選で、シムテック・フォードを駆ったローランド・ラッツェンバーガーがクラッシュ、その後死に至っている。前日の金曜日には当時ジョーダンのルーベンス・バリチェロが大クラッシュを喫して鼻骨を骨折したばかりだった。

「バリチェロの事故もあったからね。彼(セナ)はそれらの事故にかなり動揺していたのだ。バリチェロはアイルトンの子分(的存在)で、ルーベンス(バリチェロ)もまたセナの死に非常に動揺していたことを私は知っている。セナはバリチェロがあれだけの大クラッシュを喫したことに混乱状態だった。幸い、彼(バリチェロ)は重傷を負わずに済んだ」

「しかし、セナはルーベンスが大丈夫かどうかを確かめるため、金曜日の午後にメディカルセンターにやってきたのだ。もちろん、ラッツェンバーガーの事故の後もセナは相当動揺していた。長年、F1でレースをし、何度もアクシデントはあったし、ケガもあったが、死というのは経験がなく、彼は本当にかなり動揺していた」

「そうだね、彼がラッツェンバーガーに会おうとメディカルセンターにやって来たことはご存じと思うが、当然、われわれは彼にそうさせる立場になかった。したがって、通常のようには彼を入れさせなかったわけだが、彼は壁を越えてメディカルセンターに入ってきたのだ。そして私が彼をサーキットに連れて行き、ラッツェンバーガーの事故の結果を彼に伝えた。事実、彼は非常に動揺するようになった。数分、私の肩で涙した彼に、私は“君は最速の男だ、世界選手権を3度も制したし、なぜわれわれ2人が辞めて釣りに行こうとしないと思う?”と言ったのだ。ブラジルで一緒に釣りに行ったことがあり、川の状態がダメだったがスコットランドでも釣りに行こうとしたことがある。とにかく、彼は長い間一生懸命考え、そしてこう言った。“ダメだ、僕にはできない”とね。“僕は前に進まなきゃいけない”と、彼はそう言った」

翌日、セナはウィリアムズ・ルノーに乗ってポールポジションに並ぶ。スタート後、中団の事故によってセーフティカーが導入され、レース再開と同時にセナはベネトン・フォードの新星ミハエル・シューマッハと激しいバトルを繰り広げた。

「セーフティカーが離れ、シューマッハに追われたセナは超高速で再開後の1周を走り終え、私の車の前をセナのマシンが通り過ぎて行った」

「非常に不安定な状態で、マシンのバックエンドはかなりステップアウトしており、私には大事故になるかもしれないという予感がしていた」

「私のドライバーだったマリオにそう伝えた。その数秒後、赤旗が振られ、あの頃はレースコントロールの指示なく自動的に私は動いていたので、赤旗が振られてから私のメディカルカーは事故の場所へと向かった。できるだけ早く現場に向かい、おそらくはかなり短時間だったと思うが、たぶん16秒かそこらじゃなかっただろうか、セナのマシンにたどり着き、そしてもちろん、近くにいたセナのチームの医師団はすでに彼の処置にあたっていた」

「まあ、私はそれがセナであることを分かっていたわけで、ゆえに私は非常に心配だったし、とても動揺していた。その後、当然、私は彼を診察し、致命的な負傷を負っているようだったので非常に落胆していたのだが、こういう時はとにかく感情を制御して、自分にできるベストを尽くさなければならないもの」

セナのウィリアムズ・ルノーはタンブレロで超高速状態のままコンクリートウオールに激突、頭部に重篤な外傷を負ったのだった。

「そう、レースが終わって・・・、本当に長いレースに思えたよ。ずっとアイルトンのことを考えていた。当日、それ以外に事故はなかったからね。レースが終わってすぐに私はメディカルセンターに行き、まだコース用のオーバーオールを着たまま、ヘリコプターに飛び乗って病院に向かったんだ」

「そこでセナを診たばかりの集中治療専門医、それから麻酔専門医のうちの1人に会い、彼らが持っていたアイルトンのスキャンから、彼が生き残ることができない状態にあることがはっきりした」

「それから(ゲルハルト)ベルガーが来て、セナに会いたいというので集中治療室に数分だけ入れてやれたので、彼は友人に会うことができた。そこで私はもうこれ以上自分が病院にいる必要はないと思った。彼の兄弟と話し、彼の家族と電話で話した。家族はヨーロッパに飛ぶ準備をしていたので、私は彼らにヨーロッパに来る必要はないと、この結末を伝えたのだ。そして彼らは潔くそれを受け入れた」

「病院を離れ、ホテルに戻った私はホテルにあったテレビを見た。そこでは彼が本当に死んだのだという発表がなされていた。あれは本当に最悪の夜だったよ、あの夜はね。眠れなかった。すべてにおいて非常に感情的だった」

検死の結果についてワトキンス博士にうかがうと、セナが致命傷となった頭部外傷以外にはまったく負傷していなかったことを明かしてくれた。しかしながら、 F1は混乱状態にあり、イモラからわずか数週間後のモンテカルロではザウバー・メルセデスのカール・ヴェンドリンガーがクラッシュを喫し、昏睡状態が何週間も続いたのだ。

変化が必要だった。そして当時、着任して間もなかったFIA会長のマックス・モズレーがそれを実行に移す。

「戦争では、悲劇が時に進歩を招くことがある」と述べたワトキンス博士は次のように締めくくった。

「セナの死、ラッツェンバーガーの死、そして若きヴェンドリンガーの意識不明に至る重体を受けて、マックス・モズレーは専門の顧問団を形成すると決断するにいたったのだ。彼が代表となり、マシンおよびサーキットの安全性向上に向けて調査するため、無制限の予算と全権委任という素晴らしい反応を示してくれた」

「1994年以来、マシンとサーキットにおける安全性は格段に改善されており、F1レーシングを考えるにあたり、革命に導かれたと思っている」

(F1-LIVE.comより)

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