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独占インタビュー! ベルガーが語るセナ

「説明しがたいほどのカリスマ性があった」
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親友の死から15年・・・
久しぶりにセナの思い出を語ったベルガー

15年前の5月1日、サン-マリノGP決勝レースで激しいクラッシュに見舞われたことが原因で、アイルトン・セナがこの世を去った。マクラーレン時代にドライバーズ選手権を3回制覇し、4度目のタイトル獲得に向けて当時最強を誇ったウィリアムズ・ルノーに移籍したセナ。イモラの高速左コーナーであるタンブレロでコースを外れてコンクリートウオールに激しくヒットし、同日に搬送先の病院で天に召されたのだ。

すでに伝説となったアイルトン・セナについてはさまざまな人物が貴重な話を書き記しているが、今回『ESPN Racing-Live.com』は、セナがマクラーレンで過ごしたうちの3年間をチームメイトとして共有したゲルハルト・ベルガーの単独インタビューに成功した。

ベルガーが初めてセナに出会ったのは、F3に参戦していた時のこと。当時からセナのタレント性を認めていたベルガーではあったが、「若い時のドライバーは、常に自分が最高だと考えている。ライバルにもそれなりのヤツはいるだろうが、負けるわけはないと思っているんだ」と語るとおり、F1へのステップアップを目指す上で、セナを大きなライバルとしてとらえていたようだ。

「僕らはとてもいい関係を築けた。その理由の1つは、僕らが同じ年齢だったということさ」と説明するベルガー。「お互いにF3時代から知っているし、長い時間を一緒に過ごしたよ。休日も共に行動したほどさ。僕のボートに乗ったりしてね。それからアイルトンの母国であるブラジルにも行ったな。いろいろなところで遊び、彼と共に同じチームで戦っているときには本当に良い時を過ごしたんだ。それまでに経験したチームメイトにも最高のヤツはいたが、ドライバーとして倒すにはなんてことない人間ばっかりだったんだ」とも語っている。

「もちろん、アイルトンのチームメイトになった時も同じことを考えた。“OK、彼がいいドライバーだってことは知っている。だけど僕は彼を倒せるよ”ってね。だが、彼が圧倒的にすごいドライバーであることに気づいてしまったんだ。それでも、彼に対してはある種のジェラシーなんかを感じたわけではない。“彼を弱くするにはどうしたらいいだろう? 彼のイメージを下げるには?”なんてことは考えなかったんだ。ただ“問題ないさ。彼を倒そうとすることで自分もドライバーとして改善できるだろう”って考えた。それに、彼がフェアな戦いをすることは、お互いに競争してからすぐにわかったよ。だから友情を築けたんだろうね。何年たった今でも、素晴らしい友情だったということができる」

セナの勝利への飽くなき欲望は、F1キャリアを通じて非常に高いレベルにあった。最高峰の舞台で成功を収めるためには得意なキャラクターが必要だとベルガーは説明しているが、それらはすべてが受け入れやすいものではなかったようだ。

「ドライバーは非常に競争心が強く、利己的なものだ。私自身だって学生時代は、学校中で最も自己中心的なヤツだと思われていただろう。しかしF1界に飛び込んでからは、私が最も自己中心的なドライバーというわけではなくなった。アイルトンのような人間は、少し別世界にいるような感じなのさ。こういったことがらもF1の一部だと思っているよ。ドライバーは自分で自分の世話をしなきゃいけない。自己中心的な本能、闘争本能を持っていなきゃいけないのさ。そういった資質すべてを備えておく必要があるんだ」

アラン・プロストがマクラーレン・ホンダを去ってフェラーリに加入したのが1989年末のこと。ベルガーがセナのチームメイトを務めたのは、翌年1990 年から3年間のことだ。その前の2年間にチームメイト同士だったセナとプロストの関係については、これまでにもさまざまな事柄が書かれてきた。

「うーん、確かに2人のドライバー(セナとプロスト)の関係は最悪だった」とシンプルに語るベルガーは、次のように続けている。

「当時のプロストはスーパースターで、最も競争力があり、非常に速くて成功を収めたドライバーだったんだ。一方、アイルトンはまだ若いブラジル人ドライバーだったが、純粋な速さでは勝っていた。だから・・・、本当に難しかったんだろう。スーパースターのアラン・プロストにとっては、セナが難しい存在になったんだ」

「私の記憶では、当時のアイルトンは予選番長だった。とにかく速いドライバーだったが、アランもそのことは迅速に理解していた。“われわれのマシンはとにかく速い。2人ともフロントローに並べるだろう。だから予選の速い彼(セナ)にポールポジションを譲ってやる。その代わり、レースでは私が持っているすべての経験を生かして彼を打ち破ってみせる”と考えていたようだ」

「アランはその何年も前に、アイルトンの立場を経験していた。チームメイトにニキ・ラウダというスーパースターがいたときのことさ。ニキはアランに0.5 ポイント差をつけてワールドチャンピオンシップを制したこともあった。速さ、才能、キャリアのピーク度といった点では、当時のアランがまだ若手だったんだ。それは1988年と同じだった。アイルトンという若手に対し、アランはすでに有していたさまざまなトリックや精神的な駆け引きを利用してアイルトンを倒そうとしていたんだ。その方法しか、ワールドチャンピオンになるためのチャンスはなかったからね」

結局1989年のタイトルを手にしたのはプロストだった。そのタイトルが決まったのは日本GPの舞台である鈴鹿。右&左と続くカシオトライアングルへの進入でプロストのイン側を突いたセナ。プロストが直前の130Rでコンサバなライン取りを選んだためにセナがアタックを仕掛けたのだ。

しかしプロストはコーナー内側にセナがいるにもかかわらず、シンプルにターンインを開始した。当然ながら両者は接触し、エスケープロードへ。セナはマーシャルたちに押してもらい、そのままピットストップを行ってフロントウイングを交換、レースに復帰した。その後、先頭を走っていたアレッサンドロ・ナニーニをオーバーテイクしたセナは、トップチェッカーを受けた。しかしレース後に、シケイン不通過と判定されてレース失格処分を食らっている。

「その日が終わればチャンピオンシップの雌雄が決していたわけだし、あの問題については今でも明確なルールはない」とベルガー。「クラッシュを避けるための責任というものがいったい何なのか定まっていないんだ。お互いに少しだけ歩み寄ることが大事だが、ライバルのマシンに突っ込んでしまえばそれでおしまいなんだ。そうしてタイトルを手にすることだってあるってことさ」とも話す。

「だからあの日の終わりには、大きな政治的話し合いがもたれた。彼ら2人も、そして私だってあのようなことは繰り返したくなかったから、少し残念なことだったね。アランはファンタスティックで最高のチャンピオンさ。だからこそ、テーブル上でどっちがワールドチャンピオンになったのか決めるということが少し残念だった。といっても、それもレースの一部だから気にすることはないかもしれない。それも歴史の一部なんだ。素晴らしいチャンピオンシップだったよ。 2人の巨人がチャンピオンシップをめぐって激突したんだ。最高だったよ」

この2人のライバル関係は、プロストがフェラーリに移籍した1990年も続いた。セナはゲルハルト・ベルガーという新しいチームメイトを迎えたが、今度は明らかに建設的な関係を築くことが可能になっていた。

その年も再び接近したタイトル争いが繰り広げられ、再びタイトル決定戦となったのは日本GP。セナはポールポジションが左右どちら側のグリッドになるかということに関してFIAと論戦を繰り広げた。アイルトンにとっては、雪辱の機会になったのだ。

「レース前に僕らは服を交換して、お互いジョークを言い合った。彼は“ゲルハルト、第1コーナーに注目するんだ。何か面白いことが起きるぞ”って言っていたよ。彼は雪辱の機会と言っていたから、そこで何が起きるかはわかっていたんだ」

その後の展開は誰もが知るとおりのものだ。スタートでプロストがセナに並び、セナはまっすぐ進路を変えずにターン1へ。結局プロストと接触し、両者ともに第1コーナーのグラベルトラップまで滑って行ったのだ。これでセナは、自身が2回目のタイトルを手にできることを分かっていたわけだ。

セナが3回目のタイトルを手にしたのは、フェラーリが競争力発揮に苦しんだ翌1991年のこと。ベルガーは1993年からフェラーリに移籍し、セナのチームメイトにはアメリカ人ドライバーのマイケル・アンドレッティが選ばれた。しかし思うような成績を残せず、シーズン途中にテストドライバーのミカ・ハッキネンが抜擢され、マクラーレン・フォードの2代目を駆った。一方、この年に速さを見せたのはウィリアムズ・ルノー。プロストがドライブしたFW15Cが競争力を発揮し、自身4度目のタイトルを手にしたのだ。マクラーレンはこの年限りでフォードのカスタマーエンジンの使用を終え、1994年からはプジョーからエンジン供給を受ける契約にサイン。しかしセナはチームに残留せず、ついにウィリアムズに移籍した。

「僕はマクラーレンを離れ、フェラーリに加入した」と続けるベルガー。「アイルトンは僕に言ったよ。“僕はマクラーレンをもう信じられないから、離脱するだろう。ウィリアムズに行くことになるはずだ。ウィリアムズは最高のマシンを造っている。ウィリアムズこそが最高のエンジニアリング集団だ。とにかくウィリアムズ入りを狙うよ”ってね。そしてフランク(ウィリアムズ/ウィリアムズ代表)との交渉を始めたんだ。そして少したった後に、“ゲルハルト、僕はウィリアムズに行けないかもしれない。フランクはむかつくヤツなんだ。このマシンをドライブできないかもしれないよ”って言ってたよ」とも明かし、さらに続けた。

「その数週間後に会った時には、“もう一回トライしてみなきゃいけないね。ウィリアムズは最高のマシンを持っているし、僕には最高のマシンが必要なんだ” と話していた。その後は“またフランクと話し合いを持っている。すべてがいい感じさ”と語っていた。だけどその数日後に彼に会ったら、“フランクと契約締結するのは無理みたいだ。ウィリアムズをドライブすることはできないのかも”って言ってたね。結局彼がウィリアムズ入りを決めるまでの半年間、彼は僕にいろいろな話を教えてくれていたんだ」

「あの時点では、ウィリアムズが技術的に最高のマシンを持っていた。特にあの頃はエイドリアン・ニューイがいた時代だったし、パトリック・ヘッドも本当に最高のマシンを造っていた。これでアイルトンという最速のドライバーは、最速のマシンを手にしたんだ。僕らにとっては本当につまらないF1の時代がやってくるってことさ」

ウィリアムズ・ルノーFW16は競争力を発揮し、セナは1994年開幕戦ブラジルGPでポールポジションを手にした。しかしレースではベネトン・フォードのミハエル・シューマッハを追っていた際にスピンし、リタイアに終わっている。第2戦はTIサーキット英田で行われたパシフィックGPだったが、再びセナがポールポジションを奪取。しかしレースではスタート直後にコースオフし、リタイアとなった。シューマッハが2連勝を飾ったのだ。

第3戦サン-マリノGPでもセナがポールポジションを手にし、これで3戦連続ポールとなった。これが彼のF1通算65回目のポールポジションだ。しかしその後、ローランド・ラッツェンバーガーが死を遂げ、レーススタート時にも大きなアクシデントが発生。レースが再開され、セナはシューマッハの前を走っていたが、その時のタンブレロであの事故は起きた。セナはコクピットにオーストリア国旗を載せており、レース後のウイニングランでそれを取り出してラッツェンバーガーへの哀悼の意を示すつもりだったようだ。

「アイルトンがその日の朝にドライバーズブリーフィングで言っていたんだ。“ゲルハルト、マシンをドライブするなんてことはできないよ”ってね。マシンには空力的にドライブが難しい部分があったようだ。“パフォーマンスは最悪で、まだ乗りこなせていない。乗りやすくするために、いくらか改良を加えたんだ” とも言っていた。それでも、普通にポールポジションを手にしたんだ。すべてが普通のことだった。だけど、自分のマシンには満足していなかったようだ。“僕は正しいチームにいる。これからたくさん勝てるだろう”とも話していたけど」

「あのアクシデントは、僕の前方で起きたんだ。彼がコンクリートウオールに向かって進んでいくのが見え、僕は彼と並行して走りながら彼のほうを見た・・・。クラッシュアングルはそんなに悪くなかったから、衝撃はあまり大きくないんだろうと思ったよ。問題ないと感じたんだ。以前にそのコーナーでひどいクラッシュを経験したんだけど、そっちのほうが激しかった。彼のクラッシュアングルは悪くなかったんだ。だから問題ないと思った。それで僕はグリッドに戻ってきたけど、レースは中断となったんだ」

「コースがきれいにされた。レース再開時のグリッドの雰囲気も悪くなかったよ。誰もが“彼はマシンを降りたみたいだ”って話をしていた。なにか最悪の事態が起きているとは思わなかったんだ。僕としても、彼がマシンを降りたということはすべてがOKだってことだと思っていた。だからコース上をきれいにし、再スタートを切ればいいってね。この時点では、なにか悪いことが起きたという証拠などなかったんだ」

「その後レースは再開されたけど、少ししてからちょっと変な雰囲気になってきた。だけど特別なものは何もなかった。僕はリタイアしてガレージで座っていた。そしたら誰かが来て“アイルトンが病院に運ばれて生きるために戦っていることを知っているかい?”って言ってきたんだ。それで私は、事態が深刻だということを理解したんだよ」

「その後は“とにかく病院に行って何が起きているか確認しよう”と思った。それでヘリコプターに乗ってボローニャの病院に行ったんだ」

しかしセナは死に打ち勝つことはできなかった。ベルガーはデーモン・ヒル、エマーソン・フィッティパルディ、アラン・プロストらと共に、サンパウロで開かれた葬式に臨んだ。何百万人もの人が市外にあふれ、ブラジルの英雄の死を悲しんだのだ。

「これ以上、言えることはない・・・。あとは映像記録を見たほうがいいだろう」と語るベルガーはこう続けた。

「人々がお葬式に向かう場面を見るがいい。ああいった形で彼は送り出されたんだ。特別なことさ。しかし、彼は特別な人間だった。適切なことだったんだ。僕らはスポーツマンだから、レースに勝つことで有名になった。人々は僕らと夕食を共にしたがっていたし、会うことだけでも望んでいた。だけどアイルトンは特別だった。大統領と話をすることだって普通だったんだからね。彼は特別なものを持っていた。僕らには表現できないほどのカリスマ性を有していたんだ。生まれながらにして持っていたものなのだろう。とにかく、彼は“持っている男”だったんだ」

「彼がこれまでにF1に在籍した世界最高のドライバーであることは皆も認める通りだろう。個人的にも、F1史上最高のドライバーだったと記憶している。特に彼とは友人関係を築いていたこともあって、かなり近い存在だったんだ。僕は多くのすごいドライバーたちと走ったけど、その全員と走れたわけではない。ジム・クラークや、それ以前のドライバーたちのようにね。アイルトンも彼らと同じレベルにあるんだろう」

「しかし個人的に、また感情的に言わせてもらえれば、アイルトンこそF1史上最高のドライバーだったということができる」

(F1-LIVE.comより)

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