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独占インタビュー! ジャコビが語るセナ パート1

「異なる視点を持っていた。勝つためにそこにいた」
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勝者はたった一人

この30年間、F1界でマネジャーおよびビジネスアドバイザーとして活躍してきたジュリアン・ジャコビはこの世界でも有名な多くのドライバーのキャリアに携わってきた。アラン・プロスト、ミハエル・シューマッハ、ジャック・ビルヌーブ、ジャッキー・スチュワート、そしてもちろん、アイルトン・セナもその中の1人である。

ジャコビはセナと密接な関係を築いており、語るべき多くの話を聞かせている。1994年サン-マリノGPにおける3度の世界王者アイルトン・セナの死を受けて、ジャコビはアイルトン・セナ財団の設立と経営に参加、ドライバーやチームのためにマーチャンダイジング(販売促進)活動に従事してきた。また、後に複数の市場へと多角化する以前、B・A・R運営のスタートアップの一役も担っている。

今回、そのジャコビが『ESPN-Racing-Live.com』の独占インタビューに応じ、セナのキャラクター、セナとプロストがライバルとして活躍する中で両者に助言する立場としてのバランスのとり方、レースへのアプローチで彼がどのようにしてそのユニークさを築いていったのかなど、詳しく語ってくれた。

ジャコビがセナと初めて出会ったのはポルトガル。1985年、商談のため遅い夕食を共にした時だった。

「ポルトガルGPの前日、木曜日のことだった。レストランで会ったのは夜の9時だったので、彼が次の日の朝ドライブすることを考えればかなり遅い時間だなと思ったよ。その後、午前1時半過ぎまでレストランにいたしね」と話し始めたジャコビ。

「私はその時彼がどれだけ熱心だったか、どれだけくどく、しかし、どれだけ起こり得る可能性があるすべてのシナリオの詳細を知りたがっていたかを覚えている。それは計画であって、前進するための戦略だった。彼はとても知的な男で、その時はとりわけ・・・。次の日の朝にマシンをドライブしなければならないのに、午前1時半過ぎまでレストランに座って商談する奴はそれまでに会ったことがなかったんだ。しかし、それが彼のやり方だった。そして彼はものすごく詳細にこだわる奴だった」

そう話すジャコビはレースで常にトップ争いをするために努力し、真剣に体作りをするセナのやり方にも感銘を受けたのだそうだ。

ジャコビは「すべてのドライバーにとっての水準を彼が上げたのだと思う」と主張する。

「彼は冬にブラジルに戻った時も熱さの中でトレーニングをしていた。ブラジルのその時期は夏で熱帯なのだ。彼はポルトガルやモナコの自宅でもいつも正午に走っていた。彼は決して朝の早い時間帯や夜の遅い時間に走ることはせず、日中の熱い時間にいつも走るようにしていたよ。レースが行われる時間に、ね」

ほとんどのドライバーはその時間帯にエクササイズのルーティンを組まないため、ジャコビはセナがグリッド上で一番適した体のドライバーだったと確信しているという。

「彼らが彼を変人と見ることはなかったと思うが、彼には異なる視点があり、彼らとは単に異なっていた。彼は勝つためにそこにいたのだから」

そしてジャコビにアラン・プロストとアイルトン・セナの両名のマネジャーを務める時が訪れる。実のところ、プロストの推薦を受けてセナはジャコビの指導下に入っている。

「彼らは何かしら話し合ったに違いない。セナから電話がかかってきて、アラン(プロスト)の推薦に基づいて彼(セナ)がクライアントになれるよう議論できないか、と言われたよ」

「だから、その時点では彼らの関係がとてもうまくいっていたことは間違いない」

1988年にセナは当時のワールドチャンピオンだったプロストのパートナーとしてマクラーレン・ホンダに加入。そこから歴史的な決闘が始まっていく。

「彼らは決して良き友というわけではなかったが、彼らが2人とも、そこにはたった一人の勝者しかいないのだ、と分かるまでは本当の敵ではなかった」

「ホンダエンジンを積んだマクラーレンのマシンは本当に優れており、それゆえに彼らはチャンピオンシップをかけて互いに競い合ったのだ。勝者は一人だけだからね。彼らはどちらも成功するために走った。彼らは2人とも勝利を求め、それを果たすためには何だってやった。だからこそ、どちらも2番手になることを嫌っていつも戦いになったのだ」

セナは1988年のタイトルこそ手にしたが、翌1989年の世界王者の称号はプロストが勝ち取った。鈴鹿で開催された日本GPでオーバーテイクしようとセナがチームメイトのマシンに襲いかかるも接触。その結果プロストはリタイア、セナだけが生き残る。そのレースを制したセナだったが、プロストとのインシデントの後にシケインをカットしてコースに復帰したとして失格処分に。これにより、タイトルはプロストの手に渡ったのだ。

ジャコビはそんな2人につかまった。

「夜明け前に2人ともから電話がかかってきたんだ。FIAやチームとやらなければならない問題があったからね。それで・・・。彼らはどちらも別々の理由でイライラしていた。だが、これは必然だ」

この時点で両ワールドチャンピオンの敵対は明白そのものだったが、ジャコビは実際より悪く見えていたような気がすると言う。

「憎悪は人々が理解したほどひどかったとは思わない。彼らは2人ともプロだ。私は常々、一方と問題について議論はしないと彼らに言ってきた。逆もまたしかりだ。だから、あれは・・・、彼らが私にアドバイスを求め、彼らはそれに頼ったということ」

加えて、彼らのアドバイザーというジャコビの役目はマクラーレンのチームメイトだった彼らにロン・デニスから対等の立場を保証することだった。

「ビジネスの見地からは利点があったし、彼らは2人とも、私が2人をマネージングしようと、ロン・デニスがどちらか一方を優遇できないと分かるだけの賢さを持っていたので、その点においてはどちらも順調だった。したがって、彼らはロン(デニス)から最良の取引を得たと分かっていたのだ。彼(デニス)には契約をいじり回すことはできなかったからね。だから、彼らはそれを理解できるくらい賢かったと思う。それに、私は厳密に距離をとった。私はチーム内の戦いや技術的な議論、その他チーム内のいかなる事柄にもかかわらなかったのだ」

この翌年、プロストはフェラーリに移籍したが、このライバル関係は続き、1990年の日本GPは再び議論を呼ぶレースとなった。ポールポジションを獲得したセナは汚れた側からのスタートを避けようと、グリッドを修正させようと試みたものの、それを拒否されて激怒。スタート直後の第1コーナーでセナはプロストにリードを許さず、再び両者は接触する。この年はセナが栄光を手にした。

「私は第1コーナーでああいうことが起こるとは誰も予想していなかったと思う。だが、まあ、セナがポールをとったにもかかわらず、グリッドが待ちがった場所に設定されていたことから、アランが持つべきでないアドバンテージを得ることになるとして、土曜日にかなり熱い討論が行われたことを私は知っていた。ポールをとったのはアイルトンだったわけだからね。彼はFIAにグリッドの位置を変更するよう求めた」

「彼はとにかくイライラしていたと思う。彼は何よりも、自分がキッチリとリードを築いて逃げられないのに、アランがリードすべきではないと、それについて相当イライラしていたようだ。それが起きたことだと私は推測する。前の年よりも、もっと事故というべきものだった。一緒になって来たからね。もう少し重大だったんだ」

セナはチーム内外問わず、F1すべてに平等の機会があることを信じていた。

「彼が唯一、ずっと心配していたのは、自分が最高の設備を持つことを確実にすること。彼は自分が対等の立場で競争できない場合、どこに行くべきかを常に見ていた。相手がだれであれ、自分のチャンスを想像すれば、ね。そして公正に、彼がわれわれと共に行った交渉すべてにおいて、彼は他のドライバーと平等なステータスを主張した」

「マクラーレンやウィリアムズのようなトップチームに行く場合、彼はとにかくイコールステータスだけを望んでいた。そして契約上の文言は彼が用いた文言になり、その当時、私は彼がもう1人のドライバーと平等以下の立場にならぬよう動いたのだ。彼は平等以上を望まず、そして平等以下も望まなかった、ということ。彼はそれに満足していたよ。どんなドライバーであれ対等の機会を基本に望んでいたが、彼はテストの回数において対等さを確実にすることに本当に、本当に懸命だった。技術面でもエンジニアも、すべてにおいてそうだった。このやり方で、彼は自分が勝てると感じていたようだ」

1991年はフェラーリがその勢いを失い、セナとプロストの戦いもトーンダウン。セナが3度目のタイトルを獲得した年となった。しかし、セナはマクラーレンが低迷の渦中にあると感じたことから、タダでドライブしてもいい、とさえ申し出るなど、ルノーエンジンを搭載するウィリアムズへの移籍に全力を投じるようになる。

「スパで行われたベルギーGPの土曜日の朝、アイルトンには2つの契約があった。彼のモーターホームでまさに調印しようというところだったのだ。ひとつは1992年シーズンもマクラーレンにとどまる、というもので、もうひとつはマンセルの後任としてウィリアムズに行く、というものだった」

「彼はウィリアムズに行こうと決めていたし、行くべきだと分かっていたが、夜通し電話で残留するよう説得されていたんだ。ホンダの社長からね。彼はそれに負けてとどまることにした。私の意見ではこれが彼の一度限りのミスだったと思う。彼が1992年にウィリアムズのドライバーになっていれば彼は1992年のチャンピオンシップを制しただろう。だが、彼は負け馬に乗ったんだ」

「契約、金銭面の条件はAもBも同じくらいだった。彼はこう言ったよ。“僕はウィリアムズに行くべきだった。僕のミスだ”とね。そして彼に残留するよう説得したホンダは1992年の終わりに撤退した。当然、彼は取り残されたわけだ。1993年にはウィリアムズに行けなかったからね。プロストがいたから。マクラーレンにしばりつけられた彼は1年間の休養も考えたが、最終的にはレースごとにドライブすることで復帰することに決め、1994年についにウィリアムズと結ばれた」

「だが、彼が1992年に行っていれば、と考えると、もっとチャンピオンシップを制していたはずだと思ってしまう」

(F1-LIVE.comより)

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